マリー・アントワネットの出産とはどのようなものだったのでしょうか。
彼女は結婚した後もなかなか子宝に恵まれず、それは女帝である母、マリア・テレジアからも心配されるほどでした。
結婚した後の寂しさを紛らわすためにお洒落に興じたマリー・アントワネットですが、彼女も子供が生まれたあとは落ち着きを取り戻した生活をしています。
そんなマリー・アントワネットの出産とはどのようなものだったのでしょうか。
ここではマリー・アントワネットの出産について解説します。
取り違えがあってはならない!
当たり前のことですが、王家の出産は尚更のこと、取り違えがあっては困ります。
また、確かにその王妃から生まれた子供であるという証人が必要です。
自分の王位を守るために、死産であったりした時に他の子供を生まれた子供の振りをしたりなどされては大変ですね。
フランスに限らず、このような考えは王室ならでは当たり前でした。
特にマリー・アントワネットの子供は後のフランス国王の皇位継承権を持つ可能性があったため、取り違えなどにはとても厳しかったのです。
公開出産
取り違えなどがないことを証明するために、出産は公開で行われました。
マリー・アントワネットが第1子であるマリー・テレーズを出産する時はフランス中から約50人の貴族が集まり、その出産を見守りました。
出産のためには特別なベッドが用意されたと言われています。
マリー・アントワネットの出産の流れ
1778年12月9日夜中、マリー・アントワネットの陣痛が始まりました。
産婦人科の医師が陣痛を告げると、フランスから貴族が集まり、王妃の寝室に入り込んできました。
爵位や階級の順番に椅子に座り、王妃のうめく姿を覗き込んだのです。
マリー・テレーズの時、陣痛は7時間続いたと言われています。
長男であるルイ・ジョゼフが生まれた時にはルイ16世がマリー・アントワネットを労わりました。
彼女はルイ16世に「抱いて下さい、この子は国家のものです」と述べたと言われています。
まとめ
いかがでしょうか。
このように考えると、この時代の王族にはプライバシーなど存在しないということが分かります。
しかし、全てを公開しなければならない生活こそ、貴族としての誇りを保つために大切だったのかもしれません。
ちなみに、ベルサイユ宮殿にはこれ以外にも階級によって便器の形が違ったり、誰がマリー・アントワネットに下着を渡すかなど、様々な「くだらない」習慣があったのです。
それはフランス貴族にとってはプライドを維持するために重要な習慣でしたが、のちにマリー・アントワネットに廃止されてしまったと言われているのです。