マリー・アントワネットの中世におけるイメージとは

マリー・アントワネットの中世におけるイメージとはどのようなものだったのでしょうか。

彼女は今でこそ、フランス革命で処刑された世間知らずのお姫さま、といったイメージで語られています。

しかし時代が違えば、彼女のイメージも違ってきますよね。

それならば、中世における彼女のイメージとはどのようなものだったのでしょうか。

ここでは中世のマリー・アントワネットのイメージについて解説します。

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オーストリア女

今でこそ、マリー・アントワネットはベルサイユ宮殿で華やかな生活をしていたとして知られています。

ベルサイユ宮殿の鏡の間にはマリー・アントワネットの霊がいるなんて言われますよね。

しかし、当時は彼女はあくまでも「オーストリアから嫁いだ王妃」でした。

オーストリアは力を持っていたフランスと近しくなるために、彼女は結婚という形でフランスにやってきた、いわば人質だったのです。

赤字夫人

この時代、フランス王室は既に財政難の状態でした。

そのためルイ16世は特権階級であった貴族からも税金を取ろうとし、そこからフランス革命が勃発してしまったのです。

そんな中、マリー・アントワネットは赤字夫人として語られていました。

民衆の生活を知ってか知らずか、彼女は毎日のようにパーティーに行き、ドレスや髪飾りを作らせていたのです。

しかし彼女は子供が生まれた後は落ち着いた生活をしていたとも言われますし、子どもにも何もかも与えるわけではなく、ちゃんと感謝という感覚を教えていたと言われています。

とにかく悪者

フランス革命が起こった時代のマリー・アントワネットはとにかく悪者でした。

マリー・アントワネットとルイ16世には4人の子供がいましたが、4人目の第2王女、ソフィーはフランス革命のさなかに生まれたため、誰からも祝福されなかったと言われています。

その頃には人々の怒りは王室に向いており、誰も興味を持っていなかったのです。

王家の人間、それでなくてもマリー・アントワネットは全てにおいて悪者でした。

それほどまでに彼女は人々に嫌われてしまったのです。

まとめ

いかがでしょうか。

今でこそ可哀そうなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、中世における彼女は気の毒な人、というイメージではありませんでした。

むしろフランス国民からは敬遠され、ギロチンにかけられてしまったのです。

また、フランス革命の犠牲者はギロチンにかけられた人々だけではありません。

マリー・アントワネットの第2王子、ルイ・シャルルは母から引き離され、虐待されて病死しました。

いつの世も、被害を受けるのは子供なのかもしれません。

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