マリー・アントワネットの時代における彼女のイメージとは

マリー・アントワネットは今でこそ「フランス革命で処刑された悲劇の王妃」ですが、この時代は一体どのようなイメージを持たれていたのでしょうか。

フランス革命は1789年に始まりますが、その背景には様々な偶然がありました。

1783年にアイスランドでラキ火山が噴火したことにより、ヨーロッパ中に有害物質が蔓延し、農作物が不作となったとされています。

また、啓蒙思想が広がったことにより、人権という概念が出始めました。

そんな時代にマリー・アントワネットはどのようなイメージを持たれていたのでしょうか。

ここではマリー・アントワネットの時代における彼女のイメージについて解説します。

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オーストリアから来た女性

マリー・アントワネットというのは神聖ローマ帝国、今のオーストリアに当たる国で生まれました。

女帝マリア・テレジアの十一女として生まれ育ち、フランスとの関係を強めるためにフランスの王太子に嫁いだのです。

フランスの方が強かったため、最初こそ歓迎されましたが、フランス革命が始まったら今度は「オーストリア女」として嫌われました。

もちろん、その理由の一つにはフランス革命の動向を祖国オーストリアに流していたため、裏切ったと捉えられたという背景もあります。

ぜいたく

この時代のフランスは財政が傾いた状態でした。

また、色白がお洒落とされていたために小麦粉を頭からかぶっていたということもあったのです。

今も化粧室のことをパウダールームと言いますが、それは小麦粉をかぶり直していたからだとも言われています。

そしてそのような用途で小麦粉を使っていたため、民衆がパンを焼くための小麦粉が足りなかったとも言われています。

そのため、マリー・アントワネットは民衆のことも考えずにお洒落をしようとする贅沢な人間でした。

裏切り者

先ほども述べた通り、マリー・アントワネットはフランス革命が始まった時に祖国のオーストリアに情報を流していました。

もともと、ヴァレンヌ逃亡事件においても国境付近に行けばオーストリアが助けてくれる、という考えがあったのです。

マリー・アントワネットを最終的に処刑に導いたのは、この「裏切り行為」も原因でした。

この時代だからこそ、マリー・アントワネットの行いは良く思われなかったのです。

まとめ

いかがでしょうか。

マリー・アントワネットは今でこそ悲劇の王妃ですが、この頃はすっかり嫌われものでした。

14歳でフランスという異国に嫁いだという事を考えたら、もしも時代が違ったならば彼女はこんな悲しい人生を歩まなくても良かったのかもしれません。

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