マリー・アントワネットは一体なぜ殺されたのでしょうか。
マリー・アントワネットは30代で短い生涯を閉じました。
フランス革命が起こったことにより、夫であるルイ16世とともに死刑判決を受け、ギロチンで処刑されたのです。
当時、ギロチンは死刑囚の苦痛を和らげるための人道的な処刑道具であると考えられていました。
そして、ギロチンの刃を斜めにすることによってより容易に首を切断できると助言したのは皮肉なことにもルイ16世だったと言われています。
マリー・アントワネットはダンス革命においてなぜ殺されたのでしょうか。
ここでは、彼女が一体なぜ殺されたのか、ということについて解説します。
贅沢な暮らし
マリー・アントワネットというと、贅沢な暮らし振りで有名ですよね。
彼女はオーストリアからフランスに嫁ぎました。14歳で結婚し、王太子妃となったわけですが、彼女の新婚生活は非常に孤独であったと言われています。
当時、ベルサイユ宮殿には2,000人を超える貴族が生活していました。
そこには、例えば王室の人間の食事が一般公開されていたり、誰がマリー・アントワネットに下着を手渡すかというしきたりがあったりなど、マリー・アントワネットにとっては非常に窮屈な慣習で満たされていたのです。
最初は夫婦仲もうまくいかず、孤独を感じたマリー・アントワネットはおしゃれに興味を持つようになりました。
毎日のようにドレスや髪飾りを作らせ、非常に贅沢な生活をするようになっていったのです。
フランスの財政難
そんな時、フランスは深刻な財政難に陥っていました。
特にフランス革命の直前に起こっているアメリカ独立戦争を支援したことにより、フランスの財政は歳入の9倍の赤字を抱えていたのです。
当時のフランスはアンシャンレジームと言われ、聖職者と貴族が特権階級として税金を免除されていました。
そして、国民の98パーセントを占めていた平民が特権階級の贅沢な生活を支えていたのです。
さらに1783年にアイスランドで起こった火山の噴火により、フランスは農作物が実らず、極度な食糧難と物価高騰によって人々が苦しんでいたのです。
怒りの矛先がマリー・アントワネットに
その日食べるパンさえない、このままでは飢え死にしてしまう、と立ち上がった人々はその怒りの矛先はマリー・アントワネットにむけました。
彼女はオーストリア女、赤字夫人、と呼ばれるようになり、まるで彼女のせいで財政が破綻したかのようにも言われるようになったのです。
マリー・アントワネットと言えば、子供が生まれてからはそこまで贅沢な生活はしていませんでしたが、人々の心に植え付けられてしまったイメージというものはそう簡単に変えることができませんでした。
さらにマリー・アントワネットたちが逃亡したことにより、国民は国を捨てて逃げた国王たちに殺意を抱くようになったのです。
まとめ
いかがでしょうか。
マリー・アントワネットがなぜ殺されたかということに関していうならば、彼女がきちんとした裁判によって有罪になり、処刑されたというわけではありません。
そこには彼女を死刑にするための陰謀さえも渦巻いていたと言われています。
しかし、彼女はそれほどまでに国民の恨みを買っていたとも言えるでしょう。